こんにちは!Freewillトータルエデュケーションの井口です!
今回はジョン・デューイ『経験と教育』をとりあげます。『教育思想史』(有斐閣アルマ、2012年)の参考文献からとりあげました。
読んだあとに、「デューイであれば、別の著作の方が代表作なのでは・・」という疑念が浮かびましたが、いずれ他著作も読むことになると思うので、よしとします。
【概要】
デューイは主に戦前に活躍した哲学者で、後にアメリカで「プラグマティズム」と総称される哲学潮流の最重要人物の一人です。デューイのプラグマティズムは教育に直結した内容であるため教育思想史の中でも必ず言及されます。近年まで続く教育思想・方法論の一大潮流である「進歩主義的教育」「課題(問題)解決型教育」「子供中心主義」などの中で位置付けられる著者です。
1, 本書の目的:「進歩主義的教育」(新教育)の批判的発展
デューイについては上記のことだけ知っていたので、「『子供の経験を重視しろ』とか『押し付け教育は良くない』みたいな『子供中心主義』的な話かな?」と思って手に取りましたが、大きな誤解でした。
「教育の理想は、自制心の創造である」
これが本書の中盤で、核心的な部分で言及されていた内容でした。
「子供中心主義」からは想像できないような主張です。
本書の記述全体を見渡すと、
「伝統的教育」(子供の個性を無視する「押し付け教育」)への批判もさることながら、
当時流行していた「子供中心主義」的な進歩主義教育に対する批判の方が割合としては多かったように思えます。
基本理念として進歩主義を支持しながらも、進歩主義を批判して発展させようという意図が強く感じられます。
ジョン・デューイ(1859年10月20日 - 1952年6月1日)
2. 「教育的でない」経験
デューイの進歩主義批判は端的に言えば
「子供が直に経験することのみを重視する『進歩主義教育』は、思考停止だ」ということです。
進歩主義的教育はともすると
「子供の自主性に委ねよう」
「自主的に様々なことを経験していく中で子供は学んでいく」
「自主的な経験は子供の個性を潰さない」
といった主張に陥りがちです。
しかしデューイは「子供の経験のうち、『教育的ではない』経験もあるのでは?」と鋭い問いをぶつけます。もっといえば「子供の自主性に委ねていたら、教育的でない結果に陥るだろう!」ということになるのではないでしょうか。
3.「 教育的な」経験
では教育的な経験とは何か?それはデューイによれば
「子供に次なる新しい経験をもたらすような経験」
です。
子供が自分の狭い世界に閉じこもる原因となってしまう経験や、
子供の感受性を削ぐような原因になってしまう経験は、決して「教育的な」経験ではないのです。
現代に無理やり適用させて一例を出せば、
「子供の好きにさせたら、子供はずっとYoutubeの関連動画を漁り、それ以外に興味を持たなくなるぞ」といったところでしょうか。
4.「 教育的な」経験をさせるためには
デューイは、「教育的な」経験を子供にしてもらうために教師側が知っておかなければいけない2つの原理があると言います。
①連続性の原理
その原理の1つ目は「連続性の原理」です。
これは
「子供が出会う経験は、次にどんな経験をするかに影響を与える」ということです。
例えば読むという行為を習得した(経験した)子供と、そうでない子供では、
その後に経験できることがらの幅が変わってきます。
当たり前と言えば当たり前ですが。
②相互作用の原理
原理の2つ目は、「相互作用の原理」です。
これは
「子供は与えられた環境に働きかけをして経験をしていく」、もう少しいえば
「子供の内的な欲望だけではなく、外的な制約が経験のかたちを決める」ということです。
「内的な欲望だけではなく」というところがポイントです。
例えば、赤ん坊が空腹のために泣き喚いたとしても(内的な欲望)、
母親が教育的な配慮から、規定の時間まで食事を取らせないとした時(外的な制約)、
赤ん坊は自らの欲望が必ずしも充足されないことを経験するということです。
経験は「欲望」と「制約」の合わせ技であり、片方だけではない。
これも考えてみれば当たり前のことですね。
ジョン・デューイ『経験と教育』
5. 教育的な経験によって自由を獲得する!
ここまでの分析から、デューイは
「教育者は子供達を放任してはダメで、子供達が教育的な経験をする外的な条件を整備しなければいけない」
と言っているのです。
加えてデューイは
「このような教育的な経験をすることで、子供達は自由を獲得する」と言っています。
この時デューイは
・身体的な自由
と
・思考の自由(知性の自由)
の二つを区別し、後者を重視します。
簡単に言えば
「身体的な自由の拡大(つまり「やりたいことをやらせる」こと)を至上目的にしてしまうと、子供の内的な欲望を優先してしまう。しかしそれは子供達が自らの衝動に支配されることを意味する。長期的にみれば、自らの内的な欲望を知性(理性)によって自制しなければいけない。そしてそのような自制をできたとき初めて人は(知性的に)自由になれる」
というのです。
デューイはこの自由論を主張するにあたって、個人と社会の関係性に言及します。
つまり、
・社会には他人がいてルールがある。
・衝動だけに支配されていたら社会で生きていけない。
・社会で自由度を増すためには衝動を抑え、自分の欲望を達成するための手段を理性的に考えなければいけない。
ということです。
【塾の文脈での読直し】
さて現代教育哲学の大物デューイですが、塾ではどのように生かせるでしょうか。
本書末尾の「訳書あとがき」で書いてあるように、本書は「総合的学習の唯一の哲学的理論書」であるらしいので、総合的学習の実践や、流行りのPBL(Project Based Learning)の実践の際にも生かせることは確かでしょう。
実際、PBLの創始者とされるウィリアム・キルパトリックはデューイの弟子です。
ウィリアム・キルパトリック(1871年11月20日 - 1965年2月13日)
とはいえデューイを読んで、別の文脈から意識させられることがあります。
それは
「自分はこれまで、『目の前の生徒それぞれに、どのような課題解決の経験をしてほしいか』を明確にしていなかったのではないか」
ということです。
生徒によってこれまでの経験してきたことは違い、それによって次に解決すべき事柄も違います(連続性の原理)。家庭環境、過去の成功体験、言語能力など、千差万別の生徒たちと日々向き合っていると思います。
そして、生徒にとっての課題を明確にし、解決の手段のヒントを与え、自分の短期的な欲望を自制する勇気を与え、課題解決をした後に一緒にその経験を振り返るのは教育者の役割です(相互作用の原理)。
約束の時間通りしっかりと塾に来ることが大きな課題の生徒もいます。
授業中に集中することが課題の生徒も、
ノートをきれいにとることが課題の生徒も、
自分の弱さを防衛しないようにすることが課題の生徒もいます。
生徒たちがこれまでどのような経験をしてきたのかを知り、
どのような課題に直面しているのかをしり、
その課題を言語化し、解決のサポートをする。
課題解決を繰り返し、生徒たちは本当の意味での自由を知る。
我々の役割は抽象的に述べるとこのようになりますが、
抽象的な言葉でありながら、次々と具体的な生徒の顔が浮かんでくるのではないでしょうか。
生徒指導に行き詰まった時、
常に立ち返ってきたい原則だ、と強く思わされました。
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