こんにちは!Freewillトータルエデュケーションの井口です!
今回はピエール・ブルデュー『再生産』をとりあげます。『教育の社会学』(有斐閣アルマ、2010年)の参考文献からとりあげました。
【概要】
ピエール・ブルデューはフランスの社会学者で、
おそらく世界で最も有名な社会学者の一人です。
ブルデューのキャリアの中でも今回取り上げる『再生産』は比較的初期のものであり、
最も有名な『ディスタンクシオン』などにいたる文化的再生産論の原点の一つとなっています。
本を一読するとわかりますが、論述方式が非常にシステマチックで、
数学の論証に似た形式で硬質な文章が続きます。難解で知られる本です。
この本と、先行する『遺産相続者たち』と言う本は、
1968年に世界中で同時多発的に起こった学生・運動の中で、
当時の教育システムや社会構造を批判する若者たちのバイブルとなっていたそうです。
ピエール・ブルデュー『遺産相続者たち』
なぜこんな難解な本がバイブルだったのか?
その内容を見ていきましょう。
1. 教育内容の恣意性
まずブルデューがはっきりと言うのは、
「教育において教え込まれる内容は恣意的に決定されている。そしてその決定は、支配階級の利害に沿うような形でなされる」
ということです。
つまり、学校で教えられることを学ばなければいけない必然性はなく、
それを学ばなければならないのは、それが支配階級を利するためだ、ということです。
「学校で習うこと」の具体例をフランスやイギリスの文脈で考えると、
「上流階級らしい言葉遣い」などが該当すると思います。
いわゆる文語的で学校的な言葉遣いをしっかりと身につけているかどうかで、大学入試などの試験におけるレポートの評価が大きくかわるそうです。
そのような言葉遣いが正統であるという必然性はどこにもないのですが、上流階級の人々の言葉遣いが正統であるとしておいた方が、上流階級の人々にとってはお得であるのはうなづけますね。
ピエール・ブルデュー(1930年8月1日 - 2002年1月23日)
2. 文化的再生産
このように恣意的に決定した学習内容を押し付けることで、「文化的再生産」が起きるといいます。
2-1. ハビトゥス
ここで大事になってくるのが「ハビトゥス」という概念です。habitusと書きますが、英語のhabit(習慣)と近い言葉であることからわかるように、
「考え方や行動の仕方に影響を与える、人のあり方」
みたいなものです。
先ほどの例に則して言えば、「無意識に身につけている、上流階級らしい身のこなし、価値観、言葉遣い、嗜好」などをまとめてハビトゥスと呼びます(もちろん中流階級のハビトゥスなどもあります)。我々はこのハビトゥスに基づいて、無意識的に行動しています。
2-2. 第一次ハビトゥスと第二次ハビトゥス
子供はある階級の家庭に生まれ落ち、そこで家族の姿をモデルに自我形成をしていきます。当たり前ですが、家族のハビトゥス(身のこなし、価値観、言葉遣い、嗜好)に影響を受け、それと似たものを無意識に身につけていきます。
この家族を通じて得るハビトゥスのことを、ブルデューは「第一次ハビトゥス」と言います。
第一次ハビトゥスを獲得した子供は学齢期になると、「第二次ハビトゥス」の教え込みに遭います。つまり学校教育によって、いろいろなことが教え込まれるのですが、これは「学校のハビトゥス」を教え込まれているということです。学校に適合する身のこなし、価値観、言葉遣い、嗜好ということですね。
2-3. 文化的再生産
この中で、第一次ハビトゥスと第二次ハビトゥスが似たようなものであれば、大きな問題はおきません。
例えば、親が読書家の上流階級出身の子供はもともと読書好きであり(第一次ハビトゥス)、学校で求められる読解力や表現力(第二次ハビトゥス)は容易に身に付く、といった具合です。自分のもともとのハビトゥスが評価れるのですから、ハビトゥスが強化されることでしょう。
逆もまた然りで、第一次的ハビトゥスと第二次的ハビトゥスがかけ離れていれば、学校では評価されにくいです。うまく第二次ハビトゥスが入ってこなければ、もともとのハビトゥスはあまり変わらずに卒業になっていきます。場合によってはウィリスの記事でもあるように、反学校的文化をさらに強める可能性もあります。
このように、
上流階級の子供はそのハビトゥスを維持・強化し
下流階級の子供もそのハビトゥスを維持・強化します。
これを「文化的再生産」といいます。
2-4. 象徴的暴力
この文化的再生産は、暴力であり、しかしそれはわかりにくい形(象徴的な形)で行われるため、象徴的暴力だ、とブルデューは表現します。
ハビトゥスは人の生き方を大きく規定しますから、その方向性を強化する教育は暴力的であります。また、学校教育はあくまで物理的な暴力(殴るなど)ではなく、言葉上の表現(例えば内申点など)でおこなわれるため、象徴的であるといえます。
ピエール・ブルデュー『再生産』
3. 社会的再生産
このようにハビトゥスが再生産・強化される中で、学校内の成功者(成績上位者)と落第者(成績下位者)がわかれます。そしてその学校内での成功・落第が、社会での成功・落第の大きな一因になり得ます。当たり前ですが、学歴が高い方が生涯年収が高いということです
(もちろん平均的な話なので、例外はいくらでもありますが)
つまり平均的に見れば、上流階級の子供は上流階級であり続ける、ということです。これを社会的再生産と呼びます。
文化的再生産から社会的再生産へつながっているということですね。
4. 教育内容の正統性
しかしこのような「ひどい」教育システムは批判されないのでしょうか。
教育システムは構造上、批判が難しくできているのです。
4-1. 社会的再生産による正統性
恣意的に決められた学習内容は、あたかも恣意的でないように扱われます。
なぜなら、社会的再生産によって社会の上層にとどまる人々にとって、
学校での学習内容を変えることに利益がないからです。
ブルデューは、社会の下層階級もそれを受け入れてしまうことが多いと言います。
入学試験などの選抜制度が形式的には平等であるため、
学校的成功は「個人の努力や才能」の結果だとみなされてしまうからです。
自分のハビトゥス(これは個人の努力ではなかなかどうにもなりません)が学校のハビトゥスと適合していない、と考えるのではなく、「自分は勉強ができないからしょうがない」と考えてしまうと言うことです。
4-2. システムの自己再生産による正統性
さらに、教育システムは、システムの担い手(つまり教師)を再生産します。
これを自己再生産と呼びます。つまり、学校的ハビトゥスを身につけた人を選抜し(教員採用試験)、その人が次なる教育を行います。
もともと文化的な再生産をする装置であるため、
均質的な価値観しかみとめず、教育システムの外からの影響を排除しようとします。
このように、ブルデューは教育というものを社会全体に関連づけて捉え、
教育の本質として「再生産」という概念を提示していきました。
本書のあとブルデューの議論は、さらに精緻になり、射程が広がり、
『ディスタンクシオン』などの主著に至っていきます。
ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオンⅠ・Ⅱ』
【塾の文脈での読直し】
ブルデュー『再生産』、かなり悪戦苦闘した読書でしたが、
塾で働くものとして気になった点を2点、以下に取り上げてみます。
1. 生徒から社会に関心を広げる
ブルデューのいう「ハビトゥス」を意識するということは、
生徒の家庭環境を意識するということです。
しかし今回ブルデューを読んで、単に「生徒の家庭環境を意識しよう!」というだけではなく、「我々実践者の関心を、生徒という個人に対するものから、社会に対するものに広げていけるのではないか」と思いました。
とかく教育に携わるものは、閉じがちだとよく言われます。
教師に社会性がない、塾講師に社会性がないとよく言われます。
それは【概要】の「5.」にある「自己再生産」 によるものだと思います。
事実、私自身も社会や公共的な事柄への関心は薄まりがちです。
どうしたもんかなとおもいながら、とっかかりが見つかっていませんでした。
しかし社会的・公共的な事柄を念頭におかない学習指導の価値が低いことは明白です。
どうすればよいのか、ヒントがブルデューにありました。
私たち実践者は、目の前の生徒には関心があるはずです。その生徒の成績だけではなく、パーソナリティにも関心があるはずです。
しかしそのパーソナリティを「ハビトゥス」と捉えると、その先に、社会階層や家庭環境などが広がっていることがわかります。そしてその社会階層や家庭環境の先には、社会における経済構造や文化構造が横たわっています。
生徒の一挙手一投足に、社会の痕跡が残っていると考えられます。
本気で目の前の生徒のことを考えるのであれば、社会に目を向けねばならない、
自戒をもってそのような思いを強めました。
2. 「日本の教育を変える!」というスローガンについて
私たち実践者は、とかく「日本の教育を変える」と言いがちです(特に若い人に多いのでしょうか)。最近は「日本の教育は捨てたものじゃない」という論調も強まってきているようですが、日本の教育を変えたい人が多いのは事実かと思います。
小松光/ジェルミー・ラブリー『日本の教育はダメじゃない』
しかし今回ブルデューの本で見たように、
教育システムには自己再生産性があります。
よくICT導入などに際して「教育現場は変化への対応が遅い」と批判されますが、
それもそのはず。教育そのものの機能が再生産なのですから。
もちろん全く変化しないと言うわけではありませんが、
他の領域(例えば経済システムなど)に比べ、本質的に変化しにくいのでしょう。
もし本当に日本の教育を変えたいのであれば、
この点をしっかりと考えないと、へなちょこな教育理念になってしまいます。
弊社の理念を考える際にも、意識をしておきたいと思います。
さて今回は、教育社会学最大の大物ブルデューの『再生産』を読みました。
いまだに教育社会学の最新の研究でも言及される本書、
本質をついた議論が盛り沢山だったため、
今後も折に触れ立ち返ってきたい大事な本となりました。
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