こんにちは!Freewillトータルエデュケーションの井口です!
今回はアンリ・ワロン『身体・自我・社会ー子どものうけとる世界と子どもの働きかける世界』をとりあげます。『やさしい教育心理学』(有斐閣アルマ、2012年)の参考文献からとりあげました。
【概要】
フランスの心理学者アンリ・ワロンはジャン・ピアジェ(以前記事で取り上げました)と激しい論争をした、発達心理学の二大巨頭のうちの一人です。
本書は、ワロンの代表的な論文を、訳者の浜田寿美男が解説つきで紹介した重要な書籍です。「難解」で知られるワロンのエッセンスが詰まった本と言えるでしょう。
1. 「自我の成立」というテーマ
発達心理学における大きなテーマの一つに
「『自我』はどのように成立するのか」という問いがあります。
生まれたばかりの赤子は、母親と接する場合、
「自分がいて、母親がいる」という認識を持っているわけではありません。
自分という個体があることも、それとは異なる個体である母親がいるということも認識せず、ただただ空腹・温度・音などの刺激に反射的・本能的に反応しているだけです。
このような状態からいかに自我が成立するのか。
言い換えるとがどのように、反射・本能だけではない生物、つまり人間が誕生するのか。
これが発達心理学の大きなテーマの一つになってきます。
その問いに対するワロンの答えを見る前に、
まず、問いの終着点である「自我」自体の構造について、
ワロンはどのように考えていたのでしょうか。
アンリ・ワロン(1879年6月15日 - 1962年12月1日)
2. ワロンにおける「自我」の構造
ワロンが描く自我・他者の関係は、
・自我
・他者
・自我と他者をつなぐものとしての「内なる他者」
という3項で考えられています。
(竹内常一は重要参考文献にワロンをあげていることから、
竹内の記事で紹介した議論もワロンを下敷きにしているのだと思います)
自我・他者の2項ではなく、
自我・他者・内なる他者の3項で考える、ということです。
羞恥心などを例に挙げるとわかりやすいです。
恥ずかしく感じているのは、実際に相手に見られているから恥ずかしいのではなく、
相手に見られているとこちらが思うから(内なる他者に見られているから)恥ずかしい、ということになります(実際に見られていなくても恥ずかしい)。
3. ワロンにおける「自我」の成立
さて、以上のような構造を持つとされる「自我」ですが、
誕生してからどのような筋道を通って自我が成立していくのでしょうか?
以下に順を追って見ていきましょう。
本書のタイトルが「身体・自我・社会」であるように、ワロンは自我を考える際に、「身体」と「社会(他人との関係)」を重視しています。以下の記述でもそれを意識して「身体の生活」と「関係の生活」に分けて整理をしてみます。 ①生後3ヶ月ぐらいまで:自他未分化・他者への全面的依存
◯身体の生活
この時期、赤子は空腹などの身体的な衝動に対して、反射的に体で反応をしています。
このような反射を「自動作用」とワロンは読んでいます。
◯関係の生活
またこの時期、赤子は自分では何もできないので、他者(多くの場合は母親)に
全面的に依存をしています。人間が社会的な存在である起源がここにあります。
◯自我の状態
上記のような状態であるこの時期、
冒頭で述べたように、赤子には自他の区別がまったくないとされています。
「自動作用」の中で、自己と周囲の世界は区別をされておらず、
ワロンの言葉を借りて言えば、自己と周囲は「宇宙の星雲のように」広がっています。
確固たる塊があるのではなく、ふわ~っと刺激の連鎖が続いているようなイメージです。
最初期の自我が星雲のようだ、というのは美しく的確な比喩だな、と思いました
②生後3ヶ月~1年:他者への働きかけの身体的な準備
◯身体の生活
この時期にになると、赤子は周囲の状況に反射的に反応する状況から少し脱します。
それは、「姿勢」を手に入れるためとされています。
つまり、周りからの刺激に対し、反射的に動くのではなく、
周りに対して体を硬直(静止)させ、その刺激に対して注目をするようになります。
「動」から「静」へ、というイメージでしょうか(僕の解釈ですが)
まだまだ自他の区別はなく、「自分(自)が周囲のもの(他)をみている」という明確な意識はありません。
◯関係の生活
自分の動きを止め、落ち着いて刺激の源に注意をむけられるようになった赤子の周囲との関係も変化していきます。
周囲の人々からすると、赤子と目が合うようになったり、
母親の微笑みに対して赤子が微笑みを返したりするのが一つの例です。
これは身体的な発達(筋肉の発達などによる「姿勢」の成立)によって可能になります。他人の働きかけ(目線や微笑み)を落ち着いて受け止められる状態になるということだと思います。
◯自我の状態
この「姿勢」が可能になると、それを基盤にして、周囲を観察し、情報をキャッチしていきます。自動作用では、今その場の刺激に反応するだけですが、
周囲からの情報をキャッチすると、少し先のことを期待・予想するなど、
「目の前のこと以外」に注意が向くようになります。
目の前の刺激と未分化にまどろんでいた少し前の時期とは大きな違いです。
ピアジェ(上写真)はワロンのライバルでした。自己が自己中心性を脱して社会性を得るというピアジェ(自己から他者へ)と、他者との関係性から自我で生まれる(他者から自己へ)というワロンは対照的な議論をおこなっています。
③生後1歳~2歳:他者への情動的働きかけ
◯身体の生活
この時期になると、立てるようになり、世界を自由に歩き回り、より多くの情報をキャッチ・整理できるようになります。また、認知能力の発達によって、ことばを徐々に使えるようになってきます。
◯関係の生活
身体が発達すると体を動かすのが得意になり、他人に対して体を使って情動を表現するようになります。また、目の前の人の運動を模倣するのもこの時期です。
◯自我の状態
星雲のようにとけていた周囲の世界から、少しずつ距離をとり始めます。
たとえば、情動を表現することを繰返すと、
「この行動をすると、この結果が返ってくる」というある種の因果律を学びます。
明確に自他意識があるわけではないので、「自分(自)この言葉を言えば母親(他)が助けてくれる」と思っているわけではないですが、情動表現がより意図的になってきます。
また、ことばの発達によって目の前にないものを頭の中で取り扱えるようになります。
これも目の前の星雲から距離を取れるようになるということです。
さらに、目の前の人の模倣を繰り返すことで、次第に延滞模倣(目の前から人がいなくなっても、思い出して同じ動きをする)が可能になります。
これは、目の前には存在しない、心の中のイメージを反復する行為です。
これも周囲の世界から距離を取ることの一例になるでしょう。
④生後2歳~3歳:自己と世界のずれの認識
◯周囲の世界との分離
体を存分に使って情動を表現できるようになっていく時期は、
自分の望みが全ては叶えられなくなってくる時期でもあります。
「自分(自)ではコントロールができないこと(他)」を意識するようになります。
自他が徐々に分離していくということです。
◯交代遊び
またこの時期、体を使って他者(という明確な認識はまだありませんが)と
コミュニケーションを取る中で、「交代遊び」という現象が生じます。
例えば、隠れる役と見つける役に分けて遊んだり、
叩く人と叩かれる人に分かれてじゃれあう、などです。
この中で、
・自分が主導権を持って行う行動(例えば「叩く」)
・自分が主導権を持たない行動(例えば「叩かれる」)
という分化が生じます。
このように、星雲のような世界に、徐々に亀裂が入り、
星屑が集まって星が生まれるように、自己と他者という区別が徐々に出てくるのです。
自分と周囲が混ざり合っていたところから、
周囲の世界を引きずり離す、というイメージでしょうか。
◯ひとり遊び
しかし、単に「自己から外に向けて世界を引き離す」だけで止まらないのが
ワロンの面白いところです。ワロンの議論は「自分の中に他者のイメージを取り込む」と進みます。
それは、交代遊びから次第にひとり遊びが発達してくることに現れています。
つまり、一人二役になって独り言的な遊びが出てきます。
友達の役を演じながら遊ぶということは、他人のイメージを心の中に取り込むということを意味します。
浜田寿美男『「私」とはなにか』
今回紹介したワロンの書籍の訳者である浜田は、
ワロンの影響を大きく受けた発達論を展開しています。
⑤3歳~5歳:内なる他者
3歳ごろになると、「他者のイメージを取り込む」ということがより強く現れます。
表面的には、この頃の子供は自我を強く主張する時期になります。
親に反抗したり、自分にうっとりしたり、他人に嫉妬したり、憧れる他人に同化しようとします。またこの時期、ひとり遊びの中でよく見られた独り言がなくなり、
内言(心の中の対話)になります。
これらが指し示しているのは、心の中に他者のイメージが明確に現れているということです。これを「内なる他者」と呼びます。
・内なる他者に見られる自分を意識したり、
・内なる他者を理想の存在として考えたり、
・内なる他者との対話で自分の意見を作ったりするわけです。
ここに至って、ワロンの唱える構造をもつ「自我」が成立するのです。
【塾の文脈での読直し】
さて、かなり長くなってしまったのですが、
ワロンの自我論、どのように生かすことができるでしょうか。
単刀直入に言えば、
子供のパーソナリティの捉え方を発展させること、
それによって子供との接し方を発展させること、ではないでしょうか。
ワロンの議論の特徴は、
「自我は自己だけで成立していない。内なる他者も含めて、セットで自我なのだ」という点でした。この主張自体は他の人も行っていますが、それを発達心理学的にあとづけているのが特徴的です。
ワロン『身体・自我・社会』(1983)
それを踏まえると、
「その子の心の中には、どのような他者がいるのか」と問うことが大事になります。
内なる他者が高圧的・暴力的である子供と、
内なる他者が許容的・平和的である子供では、まったくパーソナリティが異なることでしょう。
そしてその内なる他者の多様性は、
家庭環境をはじめとした、「それまでに出会った他者」によって形作られるため、
その子の歴史を知らねばいけないということにもなります。
例えば、親に常に成績を取ることを強いられ、
勉強以外の生活でも高い要求を突きつけられてきた子供は、
「他人とは、自分を厳しく評価する存在だ」と考えているかもしれません。
このような内なる他者を抱える子供に対しては、
「私は君を厳しく評価するだけの人間ではないよ」というメッセージを伝える必要があります。
内なる他者に考えを巡らすことで、
その子に届くメッセージが考えられるのではないでしょうか。
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